アダルトチルドレン

2011年03月09日(水曜日)〜
投稿番号[13649]、 [13653] 、[13654]、[13693]

最近では あまり 言われなくなった 概念ですが

基本的には

家庭として きちんと機能していない状況下で

乳児から生育した人は 大人になっても 何らかのトラウマを残す という考え方です。

アルコール依存症の 親のもとで 育った人や

性的虐待を受けていた人たちなどが

本来獲得すべき 安心感や 信頼関係などを 得られないことの説明に 使われていた言葉です。

アメリカのソーシャルワーカーが 言い出した言葉で

日本では 斎藤学先生が たくさんの本を出しています。

医学用語ではないと思います。

現在は もう少し広い意味で 用いられているとおもいます。


使われるとすると 人格に偏りのある人の状態を 説明するときに 利用する先生もいるかもしれません。

境界性人格障害、依存性人格障害、回避性人格障害、自己愛性人格障害などを説明するときに 出てくるかもしれません。



日本で虐待を受けている人は かなりの数です。

驚くことにかなりの数です。

身体的暴力、言葉の暴力、育児放棄(ネグレクト)、性的虐待などを受けている人は かなりの数のようです。

性的虐待も 先進国の中では 多い方だったと思います。

親のアルコール依存、パチンコ依存、習慣性の借金なども トラウマの要因にはなります。

ただ どこから どの程度から アダルトチルドレンだという 線引が 出来るようなものでは ありません。

自分を理解する 一つの眺め方として 利用されたら どうかなと思います。


基本的に人間は それぞれ脳の働きが偏っています。

偏っていることは それほど大きな問題では ありません。

良さをうまく伸ばせていないことが つまづく原因となっています。

脳を安定させる一番の要素は安心感です。

何かあっても大丈夫な感じです。

それが 環境に恵まれていないと キチンとした 心の関係の作り方は教えてもらえず 安心する事ともできず

本人の特徴も 正しくつかんでくれないため 間違った自分の情報を

教え込まれ 刷り込まれてしまいます。


当院では アダルトチルドレンと 捉えようと思えば 取れないわけではない人は

たくさんいらしています。

特に アダルトチルドレンという 単語を 用いることは ありません。

普通に その人が わかるところから 説明していきます。


--- ここより [13653] 投稿者:まりあ 投稿日:2011年03月10日(火) より引用 ---

わたしもうつ病になったとき
どうしてこの世には心の強い人
(気が強いとかきついということではなく、健康で何事にもへこたれない人)
と弱い人(ちょっとしたことでしんどくなる人)がいるのだろうと考えました。
それで本を読んだりして勉強したら
結局生まれてかなり早いうちの成育環境での
その「安心感」の有無で決まってしまうようなんですね。

といっても、その得られるべき安心感も
たとえおおむね健全な親に育てられたとしても
乳幼児期に起こる偶然のできごとでけっこう運不運があるらしい。
(たとえば、一時的に経済的に困窮したり
不和や病気で短い期間でも離れたり、兄弟が生まれたくらいのことでも)

それは、人によって、ちょっとしたかすりキズだったり、
まあまあの深さだったり、
虐待とかがひどいとかなり深くえぐれていたり。
つまるところ、
どんな人もみな、多かれ少なかれアダルトチルドレンのグラデーションであり
いびつな生きにくさをたくさん持っている人もほんのちょっとの人も
いるのだというふうに私は理解しました。

<ここからがいいたいことです。>
自分でどうにかできたことではなかったのだし、
過去とか連鎖とか治療法とか考えても憂鬱になるだけで益がないから
うつ病が治ったころから
わかってもらえない(お互いにです)なりに
衝突を巧みにさけて今日の今を楽に楽しく暮らすことだけ
考えるようになりました。

先生がおっしゃっていたように幸せそうな人は周りを幸せにします。
だから
> 私自身が毎日辛いだけならよいのですが、
はよくないですよね。
お母さんが幸せそうにみえたら旦那さまも子どもさんも安心・・・ですよね。
どうやって幸せな気持ちになるかは、自分流の知恵が必要だけど
ここのみなさんにも知恵をもらえるかも。

***
病院にかかったほうがいいかは
【良心的なお医者さん】に相談できるといいですね。
個人的には
経済的、時間的に余裕がおありなら
お医者さんを含めて
信頼できる誰かに適度に頼ることはいいことだと思います。
--- ここまで ---


おはようございます。

まりあさん ほぼ正解といって 問題はない 書き込みと思います。

少しずつ 試行錯誤をしていけば いいのだと思います。


あえて 問題を指摘するとすると 

「うつ病」だから 分かって貰えないのでは なくって

人間というのは そんなに簡単に 分かり合えるものでは ないのです。

まず問題点の一つとして 自分のことが 良く分かりませんので うまく表現できません。

うまく表現されていないものを 聞いて

聞いた側が 自分の中にある体験と照らし合わせて どんな感じか想像します。

聞いた側も 自分のことが よく分かっていない という問題もあります。


ですので うまく伝わらないのです。


それから 「安心感」は 自分で増やせます。

「今日も幸せだな」とか 感じたり

「今日のご飯は おいしく炊けたなぁ」とか

「きれいな貝殻拾っちゃった」とか

何でもいいんです。

物事の眺め方は 眺めた人が どう見るかだけです。


良く話に出ますが

コップに半分水がある状態を
「まだ半分も水が残っている」と感じるか
「もう半分しか水がない」と思うかで 気持は 随分違います。


心は 皆さん 生まれた時は 強いんです。
ちょっと違うかぁ 強くなる素質を持っています。
隠れた運動の才能を 持っているようなものです。
運動の才能を持っていても 全く運動しなかったりすれば 
才能は埋もれたままです。
体と違い 心は 何歳になっても 元気にできます。
今日も ちっちゃな幸せを 見つけられたら ちょっとだけ 安心感が増えます。

そしたら ちょっとだけ 心も強くなります。

--- ここより [13693] 回復の経過 投稿者:まりあ 投稿日:2011年03月27日(日) より引用 ---

心療内科の薬物治療とひたすらの静養を続け、その後のことです。
寝たきりから、自分の身の回りのこと、
次に家事など家族のことができるようになりましたが、
文字通り薄紙をはがすような過程に、
「よくなったような気がしない、いつ治るのだ」と自分の評価が高まらず、「やる気が出ない」「楽しくない」とないもの探しをして嘆きました。
一方で、親と通院、一人で通院、
通院以外に外出できなかったのが一人で散歩、
次にスーパーで買い物ができるようになりました。
このころ、外の景色、風景に季節を感じることがありました。
好きでなかった雪道を歩くといやに気持ちがひきしまったり、
まだまだ冷たい空気に「おや」と春の兆しを感じたり、
知らない人のおうちのプランターの花の蕾を見て、
育てている人の楽しみを想像したり、
病気の以前には忙しくて気がつかなかったことを新鮮に感じました。

職場復帰なんていつになったら出来るんだろうと思っていましたが、
そんなころ、職場の同僚、よくいえば陽気、悪く言えば無神経な姉御から
「職場復帰は別にしてお茶でもしない?」と誘われて、
初めて家族以外と世間話をしました。
話をすることって気持ちいいと思いました。
次に、職場の上司と散歩で出会い
(実は偶然ではなく家庭訪問だったと後で知った)、
「そろそろどう?」と声をかけられました。
その人の顔を見て、急に、
元気だったころの職場の雰囲気がいっきに明るい場面として
私を手招きしました。
ああ、この人たちといた場所に帰ってもいいのかな、と感じました。

その時の私は、先生がおっしゃっていた
「準備ができている人」だったんだと思います。
少しずつ落ちる水滴でいつかは水がポットいっぱいになるように、
そのときエネルギーがほとんど十分にたまっていたのだと思います。
殻を少し破って外を覘いていたのでしょう。
その後「興味の出現」「意欲の出現」「意欲の継続」という
教科書的なプロセスになりました。
後は、順次精神活動は活発になっていき、
人とのかかわりや仕事にも喜びや感動をできるようになりましたが、
お薬はその後もゆっくり少しずつ減らしました。

「準備ができている人」になるには、
「なぜ?」「どうしたらいい?」「・・・が足りない」というような
自問の堂々巡りからついには解放され、
今の自分をあるがままに受け入れて本当の意味で休むことが近道で、
枯渇していたエネルギーが蓄えられます。
これが難しかったですが、休むためにお薬の力を借りるのです。

職場復帰は外面ですが、
内面では「これは私の人生だ、人からどう見えてもいい、
自分が満足できるように生きればいい」と思うようになったとき、
本当に人間を回復したと実感しました。

自分にとって大きな節目は、やはり自然の中での気づきが始まった時期で、
このころ病気の苦しみを忘れることができたことが貴重でした。

季節感など自然との「ささやかな」触れ合いは、みなさんが言われる
「楽しむこと」のもっとも身近で容易なものだったと今は思います。
楽しむことを忘れて久しく、楽しむことが難しい時期には、
こうした植物の刺激のような小さなものがわたしにはよかったと思います。

私は古典的なタイプのうつで、
まったく一個人の経験でしかないのでお役にたつかわかりませんが、
いつまで耐えるのか、という自分の内の期限をゆるゆると
先延ばししてほしい、もうだめだとは思わないでほしいと思います。
繰り返しますが、今は前よりこころ豊かな生活ができています。
--- ここまで ---



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